自分の“好き”に振り回されすぎたので、一回引っ越しました #2「“色々やるのが好きだもんね”が、地味にしんどい」
「どうせやるでしょ」というラベリングがしんどい
「また何か始めたの?」
「ほんとに元気だよね」
「色々やるのが好きだもんね」
どれも、悪気のない言葉だということはわかっている。
むしろ応援だったり、励ましだったり、自分で言うのもなんだが、稀にちょっとした羨望だったりしていたこともわかっている。
でも、正直に言うと私はこの「ラベリング」に心の引っかかりを感じていた。
好きだったはずなのに、心が追いつかない
私は本当に“やりたがり”なのか?
私はそんなに“何でもできる人”に見えているのか?
たぶん、そう見せてきたんだと思う。「好きなことだから」と言いながら、いつの間にか“やって当たり前”の自分を続けていた。
気づけば自分で作り上げたそのキャラから降りるタイミングをなくしていたのだと思う。
たとえば、朝起きた瞬間から頭の中はフル稼働。
「あれとこれをやって、あの連絡も返して」と、脳内のToDoが止まらない。
夜になっても「あと1つだけ」「これだけ片づけてから」とスマホを開いてしまう。
タイムツリーのスケジュールは、毎日ぎっしりだった。
打ち合わせや会議の予定に加えて「やらなきゃいけないこと」も全部メモとして予定に入れていたから。

画面はぎっしりなのに、まだ何か忘れてる気がするとソワソワしてしまう。
一日が終わっても達成感より“やり残し”に目がいってしまう。そして周りからは「また何かやってる」「好きだもんね」と言われる。
そのループになんとも言えない疲れを感じるようになっていた。
本当はずっと、心の声は聞こえていた
本当は、もっと前から心の声は聞こえていた。
「ちょっとだけ休みたい」
「誰かの分まで先回りしなくていい日がほしい」
「がんばらない自分でも、大丈夫って思いたい」
でも、それをちゃんと聞いてしまったらもう動けなくなる気がして、聞こえないふりをしていた。
逃げなかったんじゃない。逃げ方を知らなかった。
「ママ、クマがすごいよ」のひと言で気がついた
ある日、娘にふとこう言われた。
「ママ、クマがすごいよ」
それは本当になんてことないひと言だった。
でも、そのひと言が刺さった。
鏡に映る自分は確かにものすごく疲れていた。
私は“好きなことをがんばってる人”のつもりだったけれど、実際は“しんどいのに止まれない人”になっていたのだ。
少しずつ“止まる練習”をしている
うまくできない日もあるけれど、引っ越しはその第一歩だったと思う。
場所を変えてみたら、ようやく少しだけブレーキのかけ方がわかってきた気がする。
「また何か始めるんでしょ」と言われても、これからは“始めない”という選択もちゃんと自分に許したい。むしろ何かを始めずにいる自分をこれから始めるから。
がんばることも、もちろん好き。
でも、がんばらない私にもちゃんと居場所をあげたい。
そう思えるようになってきたことが今の私のちいさな進歩です。
